お知らせ

これから、弊社“社長のヒストリー”を公開致します♪ 第一話

 百貨店作りのスタート

私が、現在の、ファッション販売の派遣事業を、行うきっかけとなったのは、かつて、十年近く、宮崎の橘百貨店の社長として、運営していた経験からである。

以前、橘百貨店は、地元の名門百貨店として、多くのお客様に親しまれていたが、倒産。ジャスコ(現イオン)がスポンサーとなって、橘ジャスコの看板で、営業を継続していた。丁度、扇屋ジャスコ取締役商品部長として、出向していた折り、橘百貨店の社長として、建物を取り壊し、新しく百貨店としてデビューさせろ、との指示を受け、急遽宮崎へ。宮崎は、これまでは全く縁が無く、大学時代、演奏旅行で訪問した程度であった。

館内に百店舗入っているテナントの退店交渉、近隣の土地買収交渉、工事期間中の仮店舗の確保、商協調の根回し等々、難題は山積。どうしても、地元に精通しているスタッフが欲しいのだが、それもかなわず、地元商業界の長老に相談。「宮崎では、焼酎を飲み交わして、初めて本音が引き出せ、仲間意識が高まる。合意を得るのはその後だ」とのアドバイス。

毎晩、焼酎を前にしての説得が続いた。この頃、地元の民放で「社長宅訪問」の番組があり、我が家にも訪問。当時、中学生の娘がインタビューに「我が家は母子家庭のようで、夜、パパと食事する事が無い」と言われたのにはまいった。

昭和63年5月、ボンベルタ橘の店名で百貨店がオープン。ここからは、百貨店を軌道に乗せる苦労が始まる。私は、百貨店を良く知って頂くために、多くの場所に顔を出した。特にマスコミとのアプローチは必須で、よく、PRにご協力頂いた。テレビ宮崎の渡辺社長、宮日新聞の南村前専務は、その頃からの付き合いで、今も交流が続いている。感謝。

社員教育にも熱が入った。新規採用が百名近い数になるので、外部のコンサルタント会社を利用して、訓練は続いた。丁度DCブランドが、地方でも脚光を浴びたころで、コムサ、サンエー、アトリエサブ等の人気ブランドを集結したB館は、毎日、大盛況であった。ミッシーミセスブランドは、顧客管理の成就期で優劣がつく傾向にあった。

オープンして4年目で黒字転換、その間二割ほどのブランドが入れ替わったが、地方百貨店は、ブランド力より、個々のスタッフの販売力に負う事が多いと痛感した。この事は、後に、メルス(婦人服専門店)の社長をしている時に、更に強く感じた次第である。

代表取締役 畑中宣彦

次回に続きます。

HN-003
・家族 中・妻幸子(故人) 右・娘裕子
このように夜、外で食事をする事は稀で、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

HN-004
・マスコミ支局長会の飲み会に合流

千葉県船橋市前原西1-4-7

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