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My boss history  第五話

交流の場の拡大

西橘譜庵倶楽部以外でも色々な会に参加したり、新たに会を作ったりした。

ある日、元西鉄ライオンズの剛腕投手だった稲尾さんが、読売新聞の髙井支局長とあいさつに来られた。訪問の意図は、ボーイズリーグの盛んな南九州で、何とかリトルリーグを作って欲しいと、今まで、宮崎でリトルリーグは作られた事はあるが、意外と経費がかかるので、永続きしなかったようだ。

少年野球に造詣の深い、菊池社長、野崎社長に相談したところ、是非やろう!バックアップするから、私が音頭をとって進めて欲しいと、早速中学1年~3年のシニアを発足、監督、コーチは、社会人野球で活躍した選手が多いNTT宮崎支店にお願いした。

後援会の会長は私で、事務局は野崎社長(野崎漬物)、年間100万円位運営費が必要のようで、年会費1万円で後援会企業100社を確保した。

熊本、福岡等、遠隔地での試合が多いので、野崎社長の会社のマイクロバスを運転手付で借用、これが運営を楽にする要因となった。最初は途中でタオルを投げたくなるような試合が多かったが、いつしか九州を代表して全国大会に出られるようになった。

同志社のOB会も積極的に参加した。県内に100名位OBがいるという事だったが、実際集まるのは30名位。前述の毎日新聞支局長、故片山健一君との最初の出逢いが、この会合であった。所在なげにしている光景が、いまでも思い出させる。

この会合で意気投合して、この後二人で積極的に同志社のアピールをしてきた。だから、街中で、見知らぬ人から、私の甥っ子も同志社です、と声をかけられる事が多かった。

学生時代、宮崎でグリークラブの演奏会をした時、運営にあたった人が何名もいて、「あの時は大変だったのよ」とよく云われた。グリークラブ出身という事は、会員に一目置かれ、執行部の仲間入りをする事になった。

ロータリークラブは、ジャスコの四日市店長時代、本部長命令で2年間入会した。出席の厳しさに辟易として、丁度、米国視察旅行があったのを契機に、退会させて頂いた。宮崎へ来てからも幾度となく入会のお誘いはあったが、やんわりとお断りした。ところがある日、商工会議所の副会頭から電話が入り、「四つ目のロータリーを作る事になったが、医者しか集まらない、アンタとこも商協調の根まわしが必要だろうから、是非入会するように」

新しい百貨店の面積確保で、未だ商協調の力はあった頃で、入会する事にした。

28名のチャーターメンバーで、宮崎中央ロータリークラブは市内4番のクラブとして発足した。私が宮崎を去る平成5年には会長に就任していた。期の途中で、会長職をおりる事になって、ご迷惑をおかけした事が、まだ思い出される。

 
畑中宣彦

次回に続きます。

HN-007
・故毎日新聞片山支局長の送別会
私と宮崎放送のアナウンサーで司会をした
HN-006

HN-009
・リトルリーグ開設に尽力を賜った菊池社長(左)
宮崎時代大変お世話になった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千葉県船橋市前原西1-4-7

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